ロワジールホテル函館

日本の道徳は、自然を愛した古代日本人の心情を基調とし、それを応神天皇の頃に伝来したと言われる論語などの言葉を当てはめ説明されるようになった。以来天皇の理想的統治形態は徳治であるとされ、それに基づく帝王教育がされてきた。また、清和天皇以降の歴代天皇は名前に「仁」の文字をもつのが慣例となった。天皇が支配の実権を失った室町時代にも世の乱れを省みない将軍足利義政に対し後花園天皇が苦言を呈したのもこの徳治主義によるものである。江戸時代には儒教のひとつ朱子学を中心に仏教や神道などの影響を強く受けて形成された。侍には武士道、商人には、商道など、身分に分かれてそれぞれ道徳が形成されていた。武士道では、「上を敬い、下を導く」と言った上下関係を重んじる傾向が強く、君に忠、親に孝を説く儒教道徳を基本とし、「努力」「忍耐」と言った修行的性格を美徳としている。曲亭馬琴の南総里見八犬伝に見られるように儒教道徳に基づく勧善懲悪思想は江戸日本人の心の基調となった。明治以降、文明開化とともに、西洋の価値観が移入され、道徳も変容した。なお、明治政府が統一国家としての共有道徳を創生しようとし、天皇制を支柱に伝統的な道徳を再構築したものが教育勅語であったが、これは終戦とともに廃止される。 現在においても、無意識に伝統道徳にしたがって行動していると考えられており、日本人の倫理観を形成している。 日本型管理社会の形成の要因は、この道徳によるところが大きい。 英米の道徳観は、これとはかなり異なる。道徳観は、それぞれの国の文化、宗教、習俗習慣により、かなりの違いがある。 また、現在の学校教育における「道徳」の前身となるものに「修身」がある。 良心は、それ自体は規範意識などの情報の曖昧な総体であり、また善行をなし悪行を避ける心のことである。人間に関しては、性善説のように生まれながらにしてこの良心を持ち良いことを好み悪を嫌うとする説と、性悪説のように生まれた時点では良心は存在しないので教育によって良心を芽生えさせ育てる必要があるとする説があるが、そのいずれにしても社会に対しては、この良心に従って行動することが求められる。 特に良心の働きは個人的なものであり、これに従うことは自己に対する肯定感が増し、これに反すれば自己否定的になる。多くの場合で人間は自尊心の働きにも拠り、良心に反することを嫌う。また良心は普段無自覚である。 良心自体は明確な価値観念ではなく、また信条のように条文化することも難しい。ただ、罪悪感のような自身の行為に対してネガティブ(否定的)な感情を抱く際には「良心が痛む」などの慣用句が用いられる。なおジークムント・フロイトは良心を無意識における抑圧構造の文化的な作用だとしている。 このような心の働きは、人が社会的動物として社会に関与する上で、自分の属する社会に益するよう働き掛けるものであるが、その働き具合はFX によってまちまちである。また正義や道徳が社会の価値観によってもまちまちであるように、この良心の向かう先も文化など他の要素にもよってやや異なる。 良心はときに他人に感化されて喚起したり、あるいは目の前の状況に精神的なショックを受け喚起される場合もある。逆に止むに止まれぬ事情により、この良心に反する行動を敢えて行う(緊急避難)場合もある。 これをテーマとする物語も多く、レ・ミゼラブルやクリスマス・キャロルのように我利的(自分の利益を最優先とし他人を省みないこと)な者が良心に目覚めたり、逆に羅生門のように平凡な男が良心を捨て悪道に走る物語もある。 規範(きはん)とは、「〜である」と記述される事実命題に対し、「〜べきである」と記述される命題ないしその体系をいう。法規範や社会規範がその典型であり、道徳や倫理も規範の一種である。社会学において人間社会集団におけるルール・慣習(慣習法参照)のひとつでもある。規範についての規範はメタ規範という。 社会規範は歴史的な発展を紐解けば、社会全体の利益という目的に沿っているものであり、風習よりも合理化されている場合が多い。この社会規範に従った行動は同調行動と呼ぶ。しかし、時間の経過とともに、その本来の機能が忘れ去られて、社会的行為の調整としての機能を果たすこともしばしばである。また個人においては外部規範の先物取引 がおき、道徳となる。なお法律は、国家における規範に基づいて制定される。 人道(じんどう)とは、人として従うべき道(倫理)を指す。人道主義(ヒューマニズム)にも含まれる同語であるが、近年では価値観の多様化に伴い、価値観の異なる他人と協調する上で重要視される概念である。儒教思想では天道に対比させられる概念であり、同義語には人倫(じんりん)がある。 道徳は、社会通念上に於いて守るべき規範(ルール)であるが、一定の価値観を共有する社会において普遍的に運用されており、特に価値観の異なる社会の中では通用しないケースも見られる。しかし人道は、ヒトという枠の中で用いられる事も有り、社会通念として以上に、ヒトという存在の有り様を問う概念といえよう。 そもそもヒトという概念は、人類の主観的な視点に基いた物で、古く家畜扱いされた奴隷は、いわゆるヒトの範疇に含まれなかった。しかし奴隷制度の上で家畜扱いを被った奴隷が種族としてのヒトである以上、彼等もまたヒトとして享受できる権利を有すると考えられるようになった。(人種差別の項を参照の事) 現在では更に人道的な精神は拡充され、ヒトは動物の一種である以上、動物に対しても一定の権利があるという論調もあるが、それはさて置いても動物を扱う上でもヒトとして恥ずかしくない規範があると考えられるようになっている。(動物虐待の項を参照の事) その一方で、戦時中に戦争行為を逸脱して自身の思想や嗜好・政治的判断により、他の人に対し人として許されざる行為を成したとされる個人に対し、人道上の見地から処罰が下される事がある。また使用される兵器に関しても、一定の倫理が求められ、(核兵器の扱いでは、戦勝国の論理がまかり通っていると非難も多いが)人道上にて使用が禁じられた殺傷力の強い兵器は少なくない(古くはダムダム弾や化学兵器等)。近代より戦争捕虜に対して、一定の「人間らしい扱い」が求められている。しかし戦時捕虜に対する虐待は近年でも発生しており、度々問題視されている。これらに関しては戦争犯罪を参照の事。 第二次世界大戦から半世紀以上経過した現在においても、世界各国では武力紛争や自然災害による社会基盤の崩壊により、人としての生活が損なわれている人々が居る地域は少なくない。これらの地域に対して国際社会を先導する国際連合や赤十字国際委員会や国境なき医師団を初めとする非政府組織は人道的な見地から、その地域を援助する活動を行っている。これらの活動では、政治や宗教といった社会基盤となっている思想の異なる様々な国から、様々な価値観を持つ人々の手による支援が行われている。